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真田丸38話昌幸の感想は無念だった [ドラマ]

昌幸が亡くなる38話、和歌山、高野山の玄関口の九度山に幽閉されてから
3~4話ぐらい話が続くものと思っていたのですが、あっという間に11年間が
すぎてしまいました。それも1話で・・・う~ん悲しいし、さみしいし
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注目の真田昌幸でしたのでもう少し九度山の生活が見たかったです。
ただ歴史的にみてもこの真田親子の細かな生活の記録は残っていないようですね
信之たちとの手紙のやりとりぐらいしかないのであまり話がのばせないのでしょうか?
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昌幸はさぞかし無念だったでしょうね!目標がだんだん亡くなってきたので死に間際は
なんとなくうつ病を患っていたのかもしれませんね。
しかしこの38話は昌幸だけでなくナレ死で本多忠勝、加藤清正も
亡くなってしまいました。本当にびっくりです。この2人もなんとか延ばすことは
できなかったのでしょうか?本多忠勝も昌幸と同じで戦がなくなり平和になり
自分の場所がなくなり、一気に老け込んだのかもしれませんね
一方か加藤清正は本当はどうのようになくなったのでしょうか?
歴史的にも暗殺説ではないかというのも良くききます。この38話でも
武勇誉れ高き清正も2代目服部半蔵になんやらあっさりやられてしまいますが
もうちょっと格好良い死に方が見たかったです。家康と秀頼の謁見の際は
加藤清正が秀頼をずっと見守ったというのを聞いています。きっと
心労もかさなったんだろうなとも思われます。

あとは、きりとはるのトークはおもしろかったです。これは三谷ワールドですね
はるが障子をプスプス穴をあけるのは滑稽でした。
こんなシーンをみると真田昌幸・信繁は貧乏だったかもしれませんが平和な時代が
きてよかったと思うのですが、この2人はやはり違うですよね。戦いたかったですよね
それも強い相手と、そして思いっきり!平和に興味がありのでではなく徳川家康
勝つことに興味があったんですね。だからみんなを魅了したんですね。
私もそのうちの一人です。私も高校時代に真田幸村(信繁)に興味をもったあと
自分の価値観がこの幸村にあるのかもしれません。
私の人生・・・格好つけて損している人生を歩んでいるような気がします。
でもそれがなんとなく良いのです。たまらないのです
残りの人生もこれで、この価値観(幸村象)で頑張ります
もちろん真田丸最後まで応援しますよ!
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真田丸キャストの草刈正雄さんナレ死でなくてよかった [ドラマ]

「真田丸」昌幸 25日最期の急告知にネット上悲鳴 草刈は「ナレ死でなくよかった」
NHK大河ドラマ「真田丸」で主人公の父・真田昌幸を好演中の俳優・草刈正雄(64)が17日、
大阪市内で同ドラマのトークイベントを行った。終了後に取材対応し、ファンから物語のMVPと称されていることに喜び、感謝。撮影済みの昌幸の最期場面を「ナレ死じゃなくて良かった」と笑わせたが、その回が25日で終了しました。
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これが速報ニュースで伝わると、急すぎる退場予告に、ネット上は一斉に悲鳴が起こります。
かなりネットで話題になりました。本日(25日)の死で!
イベントで草刈さんは、大人気となった役柄を「ここまで父親がしゃしゃり出てくる大河ドラマは珍しい。
のびのびとやらせてもらいました」と演じられた喜びを語っていました。
主君の武田家滅亡後、織田(豊臣)、徳川、北条、上杉に包囲された信州の小国で、知謀・策謀を駆使して生き残った真田昌幸を、どこかトボけた憎めない人物として好演。危機に直面する発した「えらいことになった!」の名セリフも人気となった。
ドラマは関ヶ原合戦で西軍が敗北し、18日放送分で昌幸は九度山(和歌山)に流刑となる。「ヤンチャなじいさんですが、いきなり(髪が)真っ白になります。現場に立つのが一番好きな武将で、九度山ではイラだってますが、そこに苦しみと寂しさを見ていただければ」と明かしていました。

7月末に撮影終了したという昌幸の最期の場面は「僕にとっては思い出深かった」と振り返った。
同ドラマでは織田信長、明智光秀ら有力武将の最期が描かれず、有働由美子アナウンサーのナレーションでその死が告げられる手法が続き「ナレ死」と呼ばれて話題となりましたが、草刈は「ナレ死じゃなくて、よかった」と笑いを誘っていました
しかし、ドラマの屋敷陽太郎・制作統括が、25日に昌幸が最期を迎えることを告知したところ
史実では、昌幸の流刑生活は10年に及んだとされ、退場はまだ先と思われていただけに、
この件が速報ニュースで伝わると、ツイッター上には「来週かよ!」「早すぎる!」「辛い」「もう涙が出てきた」
と驚きのコメントが殺到。ドラマで関ヶ原合戦がわずか50秒で描かれたことに続く衝撃が走りました。

当の草刈は、ドラマのMVPと称されていることを問われると「ブログなどに皆さんの声が届き、
励みです。ますます楽しみが増えて、ありがたいです」と感謝。「これから、もっと面白くなる」と力を込めましたが、自身の退場後の見所を聞かれると「自分が(出演が)終わった後の台本は読んでない」と頭をかき、
昌幸を地でいくトークを展開していた。
草刈正雄さんがブレークしたのはうれしかったです。真田太平記で幸村役を演じたときよりも
人気がでてしまいました。不思議な縁ですね。






真田丸 真田昌幸は死ぬ間際病気だった。 [ドラマ]

真田親子の奮闘むなしく関ヶ原の西軍は一日足らずで崩壊しました。敗北した真田昌幸・幸村親子もタダではすみませんでした。

当然ながら“死罪”が申しつけられたましたが、もしも、この段階で2人が切腹していれば大河ドラマ『真田丸』
も生まれなかったでしょうね。単なる謀略家でおわっていたんでしょうね、宇喜多直家のように・・・
両者は、長男・信之と、その義父にして徳川四天王の一人・本多忠勝の必死の助命嘆願により命だけは救われ、まずは高野山へ流罪となります。このとき昌幸55歳、信繁は33歳。
その後、『信繁が嫁と暮らしたい』と願ったため、女人禁制の高野山から高野山の入り口、
九度山へお引越しました。
それまでの「立派な住居」と、流配地の「粗末な家」では防寒設備が格段に違い、かなり厳しい寒さだったと
思われます。気温的には信州のほうが寒いと思われるのですが、希望があった時代とわけがちがいますから高野山近辺では、日中の寒暖差が激しい土地であったことは確かなようです

九度山の生活はお金はない。しかし本当にドン底でもない。それでもやっぱり金銭的には厳しかったようで、
昌幸が信之に対して『お金ください』と送った手紙がいくつか残ってます。しかも10年で20通ぐらい
あるようです。

お金に関してはこんな逸話も残されております。あるとき昌幸が『40両持ってこい』と手紙を送ったところ、
4男が20両ほど持って九度山にやってきました。これに対して昌幸は「こちらは借金が多くて困っている。
早く残りの20両も送ってほしい。無理だったら5両でも10両でもいいからね!」と答えており、えぇと、
なんだか悲しくなってしまいますね。
実は昌幸は、最初の頃は信之を通して赦免運動を申し出ておりました。が、
それが無理だと悟ると目に見えて元気が無くなり、かなり落ち込んでいった様子が想像されます。
寒暖の差が激しいこともストレスの一因となりますし、希望がなくなった、目標がなくなった人生になりました特に、晩年は病気がちだったようで、彼の手紙には『生活はあんまり変わりはないけれど、ただこの1年はすっかり年老いて
気力も枯れてしまった』みたいな記述と共に、何度も『大草臥(おおくたびれ)』という言葉を繰り返しており、「鬱(うつ)」を思わせるような状態でした。
昇進や結婚、出産などがキッカケでなることも徳川家を2度にわたって翻弄した名将がうつ病になってしまうのかともありますが精神的にもタフであったであろう戦国武将ですが
日本人では10~20人に1人はかかるありふれた病気なのです。そしてその症状はかなり多彩なため、簡潔にまとめるのは難しいのですが、『落ち込んだ気持ちがずっと続き日常生活を送ることに支障をきたす病気』と考えて下さい。
うつ病の原因はハッキリしておりません。
意外かもしれませんが、昇進や結婚、出産といっためでたい出来事がキッカケでなる場合もある他、慢性の病気や貧困、社会的孤立も発症に関わりることがかなりあるようです。

上杉・徳川・北条を手玉に取った上田の名将から、貧乏かつ極寒の地へ流配なれば、同病になっても全く不思議ではありません。息子の信繁もあと少しで危なかったのでは?
ゲーム等ではかっこいい昌幸・信繁がえがかれていますが、昔の絵などを見るとかなり老け込んでいるのがわかります
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http://find-travel.jp/article/3694から引用

さて昌幸ですが、結局、上田に帰ることは叶わず、1611年(慶長16年)6月4日、九度山でその生涯を閉じました。
享年65。昌幸が死去した後、主立った家来は信之の元へ行ってしまい九度山は閑散とします。それから大坂の陣までの間に
、信繁が何をやっていたかの記録はあまり残っていません。奥さんが側にいたから九度山生活は堪えられたんですかね。昌幸が死んだ後、義兄の小山田茂誠に宛てた手紙を見てみましょう。
手紙の趣旨は「鮭をもらったことへの礼状」なのですが、その中に「我々なとも去年より俄ニとしより、
の外病者ニ成申候、はなともぬけ申候、ひけなともくろきハあまり無之候」という表記があります。
現代語にしますと「私も去年よりにわかに年をとり、ことのほか病気がちになりました。歯なども抜け、
ひげも黒いところがあまりなくなりました。」

このままことが起こらねば、おそらく親子で同じような転帰をたどったに違いありませんが、1614年、
豊臣方の呼びかけに呼応した信繁は九度山を出て大坂に入城。
信繁の命を懸けた戦いがはじまります。






真田丸38話 真田昌幸の最後 [ドラマ]

大坂の陣で真田信繁が大阪城に入城したと聞いた徳川家康は、「それは親か?子か?」と配下の者に聞いたという逸話があります。
過去に真田昌幸に手痛い目に遭わされていた家康は非常に昌幸を恐れていたのか、
震えるほどだったと言われています。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E...から引用
配下の者が「昌幸は既に死去しており、息子の信繁(幸村)が入城致しました」と返答すると、
家康はホッとしたようです
信繁自身、この時期まで名を轟かせるほど有名な戦はしていません。今まではすべて父、昌幸での戦での話でした。関が原の合戦で処刑しようとした真田父子を助けたのにも関わらず、恩を仇で返され怒りで打ち震えたからだというものだったそうですが、これらのやりとりは「仰応貫禄」という資料記録に明記されているとのことです。徳川寄りに編集された三河物語ですら、過去家康が真田昌幸に散々に打ち負かされたことを正直にそのまま書いているほどですから、家康は昌幸に本当に嫌な思い出しかなかったんだと思われます。

九度山時代は経済的に困窮していたようです、家康からの赦免を夢見たままこの世を去っていきます。
打倒家康を掲げながら、慣れない土地に流された昌幸は身も心も弱ってしまったのか、
赦免を何度も願い出ています。
九度山時代は自身の借金もあって経済的に困窮し、送金を願い出たり赦免を乞うなど昌幸にとって厳しい時だったようです。

九度山時代に幸村(信繁)のいずれ豊臣方と徳川方で大決戦が再び起こると予言したとも言われています
そのときにどういう戦術を取るべきかなどを死の直前に語ったとも言われています。
故郷の上田にいる信幸に使いの者を出して手紙を何度か出していますが、自分の病気が長引いていることや田舎の生活で不自由しているので推察して欲しいとか、何分疲れたなど、弱々しい文言ばかりが並んでいます。

また、息子の信之に会いたいとも述べていますが、それが叶わいそうにないと無念の気持ちを手紙に書いています。病気が治れば信之に会いたいともありましたが、残念ながら赦免も息子への対面も果たせぬまま1611年4月に65歳で死去。
九度山配流から11年が経過していました。きっともうひと暴れしたかったんでしょうね。
徳川を倒すことをずっと
夢見ていたんでしょう。この時期、真田親子の資料はあまり残ってないないとも言われています。
それほど困窮、そして昔の人(過去の人)になっていったんでしょうね昌幸、信繁は。






真田丸キャスト加藤清正の死因は暗殺?? [ドラマ]

加藤清正は、1611年(慶長16年)6月24日に帰国途中の船内で発病し熊本で死去している。
帰国というのは、1611年(慶長16年)3月に二条城徳川家康と豊臣秀頼との会見のこと。
それに清正も参加している。時期が時期だけに、家康による暗殺説の噂もあるようです。
加藤清正の死因について。おもにハンセン病と毒饅頭(どくまんじゅう)暗殺説があるみたいです。
加藤清正は熊本に帰る途中に発病し、口がかなわなくなり、健康は回復しなかった。
遺言はなかったとされています。
•1611年(慶長16年)3月、二条城における徳川家康と豊臣秀頼との会見を斡旋。
•1611年(慶長16年)6月24日、帰国途中の船内で発病し熊本で死去。享年50。
加藤清正の死因は諸説ある。死因としては、
•好色ゆえの虚ノ病(腎虚・花柳病)
•家康またはその一派による毒殺説
•瘡(癩病・ハンセン病)
暗殺説の中でも
•二条城会見での料理による毒殺
•毒饅頭(まんじゅう)による毒殺などがあります。やはりこの時期豊臣恩顧の大名といえば
余りおらず加藤清正が重要な位置をしめていたからいろんな説があるのでしょう
西軍派系の記録書や歴史本は毒殺説が多いようです。
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http://tenkai.kagome-kagome.com/Entry/5/から引用
謁見のあと、豊臣家を滅ぼそうとおもっている時期が時期だけに、まことしやかな
毒饅頭暗殺説が噂され、のちに歌舞伎の題材にもなっている。
家康は会見場において秀頼の毒殺を図り、意を受けた腹心の平岩親吉は遅効性の毒のついた針を刺した
饅頭を自ら毒見した上で秀頼に勧めたが、それを察した清正は自ら毒饅頭を食べてしまい
自分の命と引き換えに秀頼を守ったという。
たしかに史実では、加藤清正と平岩親吉は会見後に死去している。
二人の死去した日にちは、
•加藤清正1611年(慶長16年)6月24日
•平岩親吉1611年(慶長16年)12月30日
である。
同じ毒の影響にしてはあまりにも差があること、このような遅効性の毒は知られていないため歌舞伎の内容は俗説と見られている。
この会見から2年ほどの間に浅野幸長、池田輝政など、会見に参加した豊臣氏恩顧の大名が死亡しているが、
これらについても毒殺であるといううわさも有名です。家康と本多正信の謀略でしょうか?
加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後熊本藩初代藩主。通称は虎之助(とらのすけ)。熊本では清正公さん(せいしょこさん)と呼ばれて親しまれている。

加藤清正は豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。
秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、
肥後北半国の大名となる。朝鮮の役でも大活躍し虎狩の清正と言われ 秀吉没後は徳川家康に近づき、
関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。
京都二条城で家康と秀頼の謁見の際は秀頼に追従し秀頼を見守った。






真田丸37話の感想 タイトルは信之 [ドラマ]

関ヶ原の戦後処理・・・本当に悲しいことになってしましました。
真田昌幸・信繁親子はなんともいいようなのないつらさがあった
でしょうね。上田合戦の勝利を収めていたのにもかかわらず、秀忠軍を
足止めしたにもかかわらず あの関ヶ原の大合戦がわずか半日で
終わってしまうなんて!

信幸改め信之と本多忠勝が助命嘆願は歴史的にも有名な話ですね。
信之だけでなく本多忠勝が徳川家康にまさしく命をかけて嘆願したん
でしょうね。ドラマでは家康と一戦交えると言っていました。
その他歴史本などでは切腹も辞さないという話もあります。
ドラマの中で2人が家康に迫るシーンはなぜか感動・・涙が出てきて
しまいました。助命がかなうと家康から信之は父昌幸と縁を切れと
いうこと信幸ではまずいので信之にしろと・・・・
悔しかったでしょうね、でも耐えていくんですよね信之は!このあと
徳川家家臣からいろんなことをいわれるようですが我慢して耐えて
真田家をつぶすことなく発展させていくんですね。
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耐えるといえば真田昌幸と信繁、本当に生き地獄、切腹させられるのでは
なく生きて耐え忍んでいくんですね。和歌山の田舎、九度山に配流させられんですね
昌幸は亡くなりますが信繁は14年ぐらい耐え忍ぶんですね。
きりさんがついていってくれてよかったと思います。
九度山での生活本当に興味あります。このあたりを細かく教えてくれる
ドラマがないので真田親子の隠遁生活が楽しみです。
頑張れ真田昌幸!信繁!そして信之!
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タグ:信之

真田丸 関ヶ原の戦いはなんとまああっさりとした・・・衝撃だった [ドラマ]

いや~先週はびっくりしました。ネット上でも放送後かなり騒いだようですが、
まあ仕方ないですかね?、あっさりとした描き方で関ヶ原の戦いが終わってしまいました。

確かに関ヶ原の戦い自体には真田家は誰も参戦してなかったわけなんですが
忍びの者【佐助】が情報をもたらす程度のことだったのかもしれませんけど、
それにしてもですよ、もうちょっとじっくり上田城攻めで秀忠軍を足止めくらわす件りは、
昌幸・信繁親子が大活躍をしているシーンがあるのかなあと楽しみにしていたのですが
そちらも拍子抜けするほどあっさりでした。
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大体、今回の大河って、戦国時代を扱っている割に戦闘シーンがかなり少ないです。
昔に比べて予算が削られてできないのか、脚本の三谷幸喜があえて避けてるんでしょうか?
、どっちなんでしょうか?本当に!
真田家の世に出た戦は少ししかないのできちんと合戦シーンが見たかったです。
しかし、せっかくあそこまで丁寧に三成(山本耕史)や大谷吉継(片岡愛之助)は描かれてきたのに、
肝心の見せ場がなくて、演者の二人もさぞ驚いたでしょうね。
お約束の小早川秀秋の裏切りを浅利陽介で見たかったですけど…。残念でした。
島左近の活躍や戦場のそれぞれの武将の気持ちを見たかったです
福島正則や黒田長政、妻を殺された細川忠興の気持ち・・西軍に向かって言った気持ち
それを迎え撃つ三成の気持ちなど・・・
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これでまさか大坂の陣もあっさりだったら、びっくりしますけど 本当に怒りますよ
来年の大河ドラマはもおう見ないですよ!
せっかく地元静岡浜松)なのに!!
まっ「真田丸」のタイトルですから大丈夫と思いますが。
ま~それは無いでしょうけど…






真田丸ネタバレ37話 タイトルは信之です [ドラマ]

徳川秀忠の軍から上田城を守り切った真田昌幸・信繁とその家臣たち。
勝利を喜ぶ真田家中に関ケ原で石田三成が負けたことが佐助により伝わります。
動揺が走る真田家。
勝った家康は真田家の処分を決めますが昌幸と信繁の処分は?
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真田昌幸(草刈正雄)・信繁(堺雅人)は上田での戦いには勝ちました。
しかし関ケ原で石田三成ら西軍が破れてしまいます。その結果、徳川家康の力は誰も逆らえないほど
大きくなってしまいました。残念ながら真田昌幸・信繁は降伏することになります。

真田信幸(大泉洋)は父と弟を救うために大阪に行きます。徳川家康(内野聖陽)・秀忠(星野源)親子
を相手に命を助けるように直談判。もちろん秀忠は許しません
真田家の長男として信幸も意地を見せます。
そんな婿に心打たれた舅の本田忠勝(藤岡弘、)も一緒に主君の家康に頭を下げます。
結果昌幸・信繁親子の命は助かりました。
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家康に味方した信幸は沼田に加え昌幸の領地だった上田も治めることになります。
真田家の家臣を集め、真田家の当主として語る信幸。
信幸は自らの名を「信之」と改めることを宣言します。幸の字を捨てたのは昌幸との決別を意味します。
でもそれは徳川の世を生きる表むきの姿、心の中では父と弟が心配にきまっています。
さすが信幸といったところでしょうか?
大坂城に立ち寄った信繁は、石田三成(山本耕史)、大谷吉継(片岡愛之助)の最後を聞かされます。
義父・大谷吉継は戦場で散り。石田三成はつかまって処刑されました。
敗北の原因となったのは小早川秀秋(浅野陽介)の裏切りでした。
昌幸親子は命は助かりました。そのかわり高野山に流罪ととなります。
生き地獄のような厳しい生活が待っているのでした。
高梨内記(中原丈雄)・きり(長澤まさみ)親子。信繁の妻・お春(松岡茉優)
そして一部の家臣をつれて高野山に向かいます。お梅とのあいだにできた娘すえ
(恒松祐里)は上田に残ることになりました。
高野山、九度山で待ち構えていたのは農民たち。もちろん歓迎してるわけではありません。
どんな生活をするのでしょうか?






真田丸のキャスト小松姫は真田家を守った [ドラマ]

真田信幸と結婚した小松姫。関ヶ原の戦いが真田家を二つに分けてしまいました。
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小松姫と結婚した信幸は家康に味方することになり信繁と父昌幸は敵対することになりました。
猛将・本多忠勝を父に持つ小松姫はその性格はかなり強気だったということです。
だけど気転の効く頭のいい女性でもあります。
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犬伏の別れで親子袂をわけた真田家
昌幸と信繁は自分たちの居城である上田城へ向かいます。家康の追っ手を避けるため、
途中、沼田城で休憩をとろうとしました。でもまあさかあの沼田城に入れてもらえません。
歴史的には昌幸が敵になったことを知らせる連絡がすでに信幸から届いていたともいいます。
あるいはドラマでもありましたが親子三人が一緒に行動しているはずの真田の部隊に信幸がいないことを
不審に 思った小松姫の判断だったともいいます。いずれにしても、城主の許可のない兵を勝手には入れない、
というのはさすが本多忠勝の娘です。

怒った昌幸の家臣が門を激しく叩くと、鎧を着た小松姫が壁際に姿を見せていいました。
「父上とはいえ、今は敵。入ろうとするなら討ち取るまで」と言われます。
それに対して、昌幸は「孫の顔が見たかったのだ」と言います。
小松姫は使者を送って正覚寺に案内させたということです

その日の晩。昌幸達が正覚寺に移動して休憩ととっていると、兵に守られた小松姫が孫を連れてやってきます。
孫との面会を果たした昌幸には城内へ入る理由はなくなりました。
昌幸は「さすがは本多忠勝の娘だ。あの嫁がいれば真田は安泰だ」と言って上田へと向かった聞きます
関ヶ原の戦いのあと、その話を聞いた徳川家康も「さすがは忠勝の娘だ」といって感心したといいます。

実は真田太平記にもありましたが昌幸は沼田城を乗っ取るつもりだったんじゃないかともいわれてます。
本気で沼田城を手に入れるつもりなら、もっと策を使ったでしょう。昌幸がどう考えていたのかは
今となってはよくわかりませんが、少なくとも小松姫が警戒していたのは間違いありません。

関ヶ原の合戦で家康の側の大勝利。信幸は安泰です。
でも、石田三成側が負けたので、昌幸・信繁は領地没収のうえ厳罰にすることになりました。
家康は怒っていましたが、昌幸は関ヶ原の戦いの首謀者ではありません。
死罪にするほどではないと思っていたようですが。でも息子の秀忠の方はもっと怒っていました。
第2次上田合戦で苦渋をなめさせられ「死罪にすべき」と主張します。秀忠は上田城を攻めて失敗し
関ヶ原に遅参したためで根に持っていたのです。
(遅参は家康の作戦ではないかとも言われています)
これに対し、真田信幸は昌幸・信繁の命だけは助けてもらうように助命活動をはじめます。
小松姫の父・本多忠勝も助けてくれました。その甲斐あって昌幸・信繁は死罪をまぬがれて、
高野山に流刑ということになりました。
改めてすごい女性です。関ヶ原後も真田家にとって重要な女性だったようです







真田丸感想36話は決戦です [ドラマ]

ついに天下分け目の合戦、歴史上有名な関ヶ原の戦いです。
確かに集まった人数をみていると大合戦なのですが本当にこの戦で
戦っていたのは石田三成、小西行長、宇喜多秀家、大谷吉継ぐらでしょうか?
この人数で東軍と言いながら豊臣恩顧の大名、石田三成らを嫌っている
大名と戦いました。豊臣恩顧の私的な戦いのような戦いです。
この隙をみごとに狙った徳川家康は本当にすばらしいですね。
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毛利一族は全く動かないし、島津も戦わないし、剛勇の立花宗茂は
遅れるし、最後に小早川秀秋は裏切るし・・・これは間違いなく
戦が始まる前に勝負は決まっていたのですね。
徳川家が動いたのか・・・やはり豊臣恩顧の大名、黒田長政が
かなり動いたんでしょうね。
関ヶ原当日の布陣を見ていると絶対西軍が有利なんですが・・
何回も言うように西軍の内部は食い荒らされていたんでしょう
東軍は囲まれていますもんね。家康の後ろに毛利もいれば長宗我部も
います。後ろを襲われないということで家康は真ん中に進んで
いったんでしょうね
信繁.jpg
http://arasujinetabare.com/dorama/post-2005.htmから引用

武将らしく討ち死にしたのは大谷吉継だけ、他の武将は再起を図るために
逃げたのでしょうか?
両軍はなぜ関ヶ原の地で激突したのでしょうか?いろんな激闘を実践で
経験していた家康側に勝ちがつくのは当然と言えば当然でしょうか?
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http://matome.naver.jp/odai/2145363592706657201から引用
真田昌幸と信繁は徳川軍と戦い、関ヶ原への参陣を遅らせたのに
西軍敗軍の報を聞いたときどんな気持ちだったのでしょうか??
なんで負けるのか???本当に激しく怒ったのではないでしょうか?
負けるはずがないのに!!

運命とは本当にはかないなあ! これで昌幸はもう表舞台に立つ
ことはありません。信繁も15,6年後だけです。それも豊臣家の
将来がないとわかっていて味方します。平和よりも戦が
好きだったんでしょうか?

第2次上田の戦い・・・・もう少し詳しくドラマを見たかったなあ!
これから本当に真田丸応援します。
がんばれ生き抜け、信繁!






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